信雄とは?/ キャッシュワン
[ 246] 織田信雄 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84
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この項目では歴史上の人物について記述しています。雑誌編集者については織田信雄 (編集者)をご覧ください。 織田 信雄(おだ のぶかつ/のぶお)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。 織田信長の次男。幼名は茶筅丸。出家した後は常真と名乗る。北畠家の名跡を継承していた時期は御本所と敬称された。 永禄元年(1558年)、織田信長の次男として生まれる。織田信孝の方が数日先に生まれたが、侍女が信長に出生を伝えるのが信雄の方が早かったために信雄は次男、信孝は三男とした説と生母の身分から次男、三男を置き換えた説がある。生母は生駒家宗の息女。ただし、身分説は信雄家系により後年書かれた史料に見られるもので、信孝生母坂氏は北伊勢随一の豪族関氏の庶流鹿伏兎氏の庶流にあたり、生駒氏より劣る事は、出生当時の両家の情勢を考えると、実際には考えにくい。 天正7年(1579年)、信長に無断で伊賀に攻め込み大敗したため、信長から激しく叱責されたが、天正9年(1581年)に父から大和・伊勢の諸大名の軍勢を預けられて再び伊賀に攻め入り、伊賀の国人を討ち果たしている。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が死去すると、信雄は近江土山まで進軍するものの、すぐさま伊勢に撤退している。そして明智光秀の死後、清洲会議が開かれると、信長の後継者になろうと画策するも失敗した。その後、尾張・伊賀・南伊勢におよそ100万石の所領を与えられ、清洲城を居城とし、織田に復姓した。また、かつて織田家の主筋であった斯波氏の庶子・津川義冬を家老に取り立てている。 天正11年(1583年)、柴田勝家と羽柴秀吉との戦いである賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に味方した。そして後継者争いで日頃から不仲であった柴田方の異母弟・織田信孝を岐阜城に攻め、その降伏後に自害させた。 しかし、柴田勝家の死後、急速に勢力を強める羽柴秀吉と対立、徳川家康と同盟を結んだ。そして天正12年(1584年)3月、秀吉に内通したという理由で重臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時ら3人を殺害し、徳川家康に助けを求めたことから小牧・長久手の戦いが起きる。 織田・徳川連合軍は長久手の戦いで局地的に羽柴軍を破り、羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取った。しかし、11月11日に信雄は家康に無断で秀吉と単独講和してしまう。このため、信雄を擁して秀吉と対立していた家康には、秀吉と戦う大義名分を失って兵を退いている。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、伊豆韮山城攻めで武功を挙げた。ところが戦後の論功行賞で家康が東海5ヶ国から関東8ヶ国に移封され、代わって信雄も尾張から家康旧領への移封を命じられるが、信雄がこれを拒否したため、秀吉の勘気を受けて改易された。下野烏山(一説に那須とも)に流罪に処された。このとき、出家して常真と号している。 その後、出羽秋田、さらに伊予に流されたが、間もなく家康の斡旋により、文禄元年(1592年)の文禄の役に際し、豊臣秀吉によって赦免されて再出仕し、相伴衆に加えられた。このとき、大和国内に1万8000石を与えられた。同時に長男・織田秀雄も召し出されて、越前亀山に5万石を与えられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際の動向は、はっきりしない。石田三成を支持したとも、畿内情報を徳川家康に送っていたともいう。おそらく、大坂にあって動かず、西軍と見なされたと思われる。そのため、戦後に家康から改易されてしまった。このとき、長男の秀雄も改易されている。 その後は大坂で暮らしながら豊臣家に出仕した。しかし、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に豊臣秀頼のもとを去った。当時、世間で信雄が豊臣方の総大将になるという噂も流れていたようである。 大坂夏の陣後の元和元年(1615年)7月23日、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられて、大名に復帰した。上野国甘楽郡では城内に風雅な庭園楽山園を作る一方、養蚕などの産業の育成にも力を注いだ。のち四男信良に上野小幡藩2万石を分け与え、自らは京都に住んで茶や鷹狩りなど、悠々自適の人生を送った。事実上の隠居であったと考えられる。なお、寛永5年(1628年)10月には徳川家光の招きにより、江戸城での茶会に参加している。 四男の織田信良の系統は、はじめは上野小幡藩の藩主であったものの、明和事件にともなう転封によって出羽高畠藩の藩主となり、さらに陣屋の移転にともなって出羽天童藩の藩主となり、廃藩置県を迎えた。 五男の織田高長の系統は、はじめは大和宇陀松山藩の藩主であったものの、お家騒動にともなう転封によって丹波柏原藩の藩主となり、廃藩置県を迎えた。 六男の織田信為の系統は、津田姓を称して、大和宇陀藩織田家や上野小幡藩織田家の家臣となった。信為の長男・津田外記や次男・津田八郎兵衛(谷山真弥)は宇陀藩織田家、3男津田頼母は小幡藩織田家に仕えた。 信雄は度々の失態を「三介殿(信雄)のなさる事よ」と当時の織田家中で呆れ気味に評されており、「暗愚の将」とされる。信長存命中に無断で行なった伊賀攻めで大敗したとき、信長は譴責状を信雄に送って激しく叱責したばかりではなく、親子の縁を一時は断ち切ろうとまでしたと言われている。一方で織田一門の席次は織田信忠、織田信雄、織田信包、織田信孝といった順で決められてあり、弟の信孝より常に上位に配されていた。 本能寺の変後、近江土山まで軍勢を進めるも明智軍と戦わずに撤退し、さらに父・信長が築いた安土城を焼尽させたとまで言われていた(近年の詳細な研究により、安土城の焼失は略奪目的で乱入した土民が原因と、ほぼ断定されている)。 小牧長久手の戦いにおいても、後援者の徳川家康に無断で豊臣秀吉と単独講和し、さらに後年は秀吉の移封命令に逆らって改易されるなど、時流を見る目の無さに基づく失敗が多い。 能の名手と伝わる。文禄2年(1593年)に秀吉が主宰した天覧能を観た近衛信尹は「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」との感想を残しており、また徳川実紀には聚楽第で催された能について「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と記されている。 |