存在とは?/ キャッシュワン
[ 1451] 存在 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8
|
存在(そんざい、existence)とは、この世界の多様な現象を把握するために、一定の条件を満たした現象群を統合した呼称。一般的にはその現象群が物理的因果関係を持つ時、その現象群は存在する、と認識される。例えば何らかの塊に力を加えて動いた時、我々はその塊が物理的に存在すると認識する。そして、その表面の色、模様、感触から材質が木である事が分かり、又、形状から機能を推定する事でその塊を「椅子」として認識する。 又、そのような物理的存在を過去や未来、或いは別世界に移動して想像する時にも、その物は存在すると考えられる場合もある。例えば、椅子を動かしたという記憶がある時、我々はその椅子がかつて存在していたと考える。又、多世界論理では様々な世界にそれぞれ椅子が存在し、(椅子に腰掛ける時)我々の意思がそのうちの一つを選択するという形而上学を展開する。これらの存在感覚の底辺を成していると思われるのは「実存感」(reality)であると思われる。 科学的な物の考え方によれば、現実世界は、感覚的に受け取れる物事から構成されている。地球から遥かに遠い星々も、肉眼か、でなければ望遠鏡などを使って観測する事ができ、それゆえに「あの星は存在している」といえる。細菌など微視的な事物についても同様である。 一般に自然科学は存在する物事についての理論的説明であり、理論によって予測された通りの振る舞いが、実験や観測によって確認できるかどうかを頼りに考察を積み重ねていく営みである。そこで、観測不可能なものについては、科学的には存在しているともしていないともいう事が出来ない。 このように観測や実験を通じて確認出来る存在は、しばしば科学的存在と呼ばれ、神や超常現象、死後の世界などのように確認する事の出来ない物事と区別される。又、多くの観察や実験結果と一致するような既存の科学の理論と大きく矛盾をきたす物事は、その存在が疑わしいとされ、科学的存在とは考えられない。 社会的存在という考え方もあり、これは簡単に言ってしまえば、その人物の社会における尺度を軸にその存在をはかるものである。社会における尺度は、社会的地位や、社会に対する影響力などがある。(例えばショパンは音楽界において重大な存在であるが、当時は音楽家の社会的地位は現代よりは低いものとされていた。) 社会的地位が高いと見做される職業に就いていたり、社会的重要性や貢献度の高い業績があれば、その人物は社会的に存在すると言えるが、逆にその人物でなくても代用可能な労働をしている者、また、昔の隠者、現代の引きこもりやニート等はそれぞれ、社会的には存在が応分に希薄であると言える。 感覚が必ずしも頼りにならない事は、錯覚や幻覚、夢などを通じて多くの人が感じ取っている。又、人によっては、時間や空間のどこかに「果て」のようなものがあるとしたらその「向こう」には何が在るのか、あるいはただ無が存在しているのか、無が存在出来るのか、といった素朴ながら答えがたい疑問を持つ事もある。あるいは、自分が経験している物事全てが実は夢なのではないか、自分はいつかそこから目覚めてまったく違う世界にいるのではないかという可能性も、文学や漫画などでしばしば採り上げられる。そうした考えを突き詰めると、自分が普段接している物事が本当に存在しているのか、自分が普段は存在していないと考える物事(架空の物事、信仰の対象となっているが信じていない人々には感じ取れない物事、など)は本当に存在していないのか、といった迷いを持つ事もある。 諸々の宗教の中には特殊な体験(神の顕現や悟りなど)を通じて通常の感覚では捉えられない物事に遭遇する場合もある。それに基づいて、日常感覚や一般に「科学的」といわれるような存在や現実世界についての理解が誤っているとされる事も少なくない。 哲学においては、古代ギリシアのプラトンやアリストテレス以来、存在をどう捉えるかについて様々な考え方が提出されてきた。近代の哲学者の間でも、「物自体」は決して知る事が出来ず、それゆえ、ある物が「在る」かどうかについては断言は出来ないのではないか、という疑問は繰り返し提起されてきており、第一級の思想家と見なされている人々の間でも意見の一致を見ていない。 また、マルティン・ハイデッガー以降、「基礎的存在論」と呼ばれる哲学の一分野が大きく取り上げられるようになった。ハイデッガーは「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在そのもの」(Sein、ザイン)を分け、前者は後者を生成の根源とすると考えた。自然科学は「ものが存在する」の「もの」すなわち「存在者」の方を問い、「存在すること」その事は問わない。しかし、ハイデッガーなどは、まさに「存在すること」その事を問うたといえる。この問いは純粋に哲学的で、一般に理解されている自然科学の存在の理解とは次元が異なる話である。どのようなものが「存在する」にせよ、「存在する」という事だけは変わらない。ちなみに、この問題を最初に定式化したのは、古代ギリシアのパルメニデスである。彼は、その詩的な著作の中で、「存在するもののみが存在する」とし、「無は無い」と考えた。ただし、これも又、自然科学がしばしば取り上げる「無」とはそもそもの次元が異なる議論である。西洋の無は、存在の否定であり、本当の意味で「無い」という事である。よって、無を考える事は出来ない。 一方、ハイデッガーやパルメニデスにおける「存在」と、東洋的な「絶対無」との関連を指摘する声もある。代表的な論者は井筒俊彦であるが、ハイデッガー自らもこの事を認めていると見られる。すなわち、存在も絶対無も突き詰めれば同じ事柄をいっており、それが世界のありかたの根源的な次元である、と考えられている。ここでいわれている絶対無は単なる非-存在(Non-being)ではなく、無でありながらも、存在と無の対立を超えてそれらを包摂するような「存在者を生じさせるもの」である(無の項目を参照されたし)。 一部の理論物理学では、宇宙の誕生の過程やミクロの世界の物質の振る舞いを数学的に考察する中から、我々の現実世界以外の平行宇宙や虚時間における物理過程などに言及する事がある。ここでは、現実世界として一般に考えられているような世界の外があり、そこに何かの物事が存在、進行していると呼べば呼べそうな事態がある。 又、コペンハーゲン解釈と呼ばれる量子力学の有力な一解釈によれば、物質を量子のレベルで把握する場合、そこには細かな粒子状の存在物とそれらを隔てる空間とがある訳ではないとされる。単一の量子は空間内に広がりを持って確率的に分布しており、特定の一点に存在する訳ではない。観測行為が起こると、そこで初めて、特定の位置が確定される。(シュレーディンガーの猫、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス、ベルの定理も参照のこと) 以下に挙げる例は、物質や物体のように何らかの実体を持つと見なされる存在の例である。物質や物体と同様にこれらの実体もまた、現象、運動、反応、変化を起こすことができ、精神現象、社会現象などというものがある。これらの中には実際にはなんらかの現象、運動、反応、変化を見ているだけで、実体と言えるものはない場合もあるが、どこまでを実体と見るかは文化的歴史的に複数の見方があることが多い。 物質。 多くの現代人の通念としては、物質ばかりが実体的存在として重視される傾向がある。だが、相対性理論によれば物質(質量)も、あくまでエネルギーの状態のひとつにすぎない。物質は反物質と衝突すると対消滅を起こし、いわゆる"物質"としては消滅し、質量がエネルギーとなって放出される。(比較的身近な例では「ポジトロン断層法」、「陽電子」の項が参照可能) 電界、磁界、重力場。 いずれも量子化により対応する素粒子が現れ、物質ともエネルギーとも見なせる微妙な存在である。 情報。 情報はエネルギーの様々な状態である電磁波、磁界、光、"物質"などにより、変化自在に運ばれ、表現される。いわゆる"物質"には必ずしも依存してはいない。 ^ 力はニュートン力学において、すでに数式上に登場している存在だが、これを存在としてどう位置づければよいのかについては、議論のあるところである。現代の素粒子論等でまだまだ探求の最中である。 ^ エネルギーは通常「実体」とはされない(百科事典や哲学事典のエネルギーの記事参照のこと)。エネルギーそれ自体が文字通り(定義通りに)「実体」として存在しているわけではない(詳しくは青木書店『哲学辞典』あるいは岩波『哲学・思想事典』などの「実体」の記事を熟読のこと)。例えばゴルフボールの運動エネルギーはゴルフボールがあって、なおかつそれが移動しているから、物理の数式上は存在していることになる、という非常に概念的な存在であるが、相対性理論以降はエネルギーが物質化することもある、とされるようになり、これも古いの概念枠ではもはや分類が困難な、微妙な存在である。) ^ 生物は物質でできている、と一応は言えるが、生命は物質そのものではない。近代の(つまり一昔前の古い)生物学では「機械論⇔生気論」などという非常に単純化した図式(一種の2項対立思考)を採用する考え方や議論が学者の共同体に蔓延し、この説明がそもそもあくまでひとつの仮説にすぎないということにも気づかないで教条のように扱う科学者まで現れたが、現代の先端の生物学では生物情報学が登場し、生命を物質とだけ捕らえていては理解できない、情報の流れという無形の存在が重要なのだと、健全な科学者には認知されるようになってきた。(ただし、いまだに「機械論⇔生気論」いう図式で全てを把握しようとする人が学者の共同体には(年配の方々を中心として)多数存在する。このように図式(仮説)を否定する事例が提示されても図式(仮説)を棄却できないというのはもはや健全な科学的な思考プロセスとは言えず、観念にとりつかれてしまっている状態、一種の「固定観念」化している状態とも言える。あるいは、科学共同体の内に潜む、一種のドグマ主義や原理主義にあたるとも言え、共同体内部の問題だけに非常にやっかいな問題である)(生命のとらえ方、概念の発展については生物学の項も参照可) |
[ 1452] 神の存在証明 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E
|
また、この四種類の存在証明は、いわば典型的な論証形式のパターン区別に当たり、他の様々な個別的な思想家による、神の存在証明の試みがあった。 宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。 前三者は、カントが『純粋理性批判』において中世以来の神の存在証明をその論駁のために独自にまとめたものである。しかし、神の存在証明の分類としてよくまとまっているため説明の際にしばしば使用される。 世界の事物は、自明的に存在し、それらはきわめて精妙かつ、壮大な秩序と組織原理を持っている。太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。動物の身体などは、更に精巧で見事であり、人間となると、もっと精巧である。しかも自然世界は、草を食べる牛がいれば、牛を食べる狼や人間が存在し、空から降る雨は、適切な季節に大地を潤し、植物の生長を促し、その実の熟成を、太陽の光が促す。 このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遥かに越えている。世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その高度な目的的な仕組みと存在のありようで、まさに神の存在を自明的に証明している。 アンセルムスが、このような形の神の存在証明を試みたので有名である。しかし、この証明は中世哲学において、極めて一般な証明議論であった。 この証明は、カントが論破したことで有名であるが(目的論的証明も宇宙論的証明もカントによって論駁された)、「存在する」という事態を、「属性」として捉え、例えば、次のような論理を述べる。「存在するという属性を、最大に備える存在者が存在する。何故なら、存在するという属性は、他の存在者もすべて備えているが、そのような属性を「最大に持つ者」は、まさに、自明的に存在するからである」 中世哲学で、「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明の論証手順は、古典ギリシアのアリストテレスに遡る。事物や出来事には、すべて「原因」と「結果」があると考えたのはアリストテレスである。従って、神の宇宙論的証明は、アリストテレスがすでに行っていた。 中世スコラ哲学は、13世紀の「アリストテレス・ルネッサンス」の言葉で知られるように、アラビア・スコラ哲学を介して、古代ギリシアの哲学者、とりわけアリストテレスの思想を取り入れたところで成立したとも言える。トマス・アクィナスは、アリストテレスの根本の原因者の概念を、キリスト教の神に当て嵌めて、この証明を行った。 すべての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、はじめてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。 この証明に対し、出来事の原因と結果は、必ずしも一対一ではないという考えがある。原因は一つとは限らないし、結果も一つとは限らない。しかし、原因が仮に非常に多数あったとしても、それらの多数の原因となる出来事の原因を尋ねて行けば、やはり、根源の宇宙の初原の原因に辿り着かざるを得ない。この初原の原因が、すなわち神である。 あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。 カントは理論理性によっては神の存在証明はいかなる形でも行えないと考えた。しかし道徳的実践においては、実践理性の必然的な対象である最高善の実現のために神の実在と魂の不死とが要請されるとした。 カントは道徳法則に従うことを善としている。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。まずもって不完全である人間が最も有徳であるためには無限な時間が必要である。そこで永遠に道徳性を開発せねばならず魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係の保証は神によってなされるしかありえない。それゆえ、神の存在が道徳的実践的見地から必要とされるのである。 四種類の存在証明は、基本的なパターン分類であり、一人の思想家・哲学者の神の存在論証において、これらのパターンの一部が使用されたり、また複合形で論証が行われたりする例もある。 近世以降にも神の存在論証はあるが、それぞれの思想家で、何を強調するかのバリエーションであるとも言える。「神の不在証明」の問題と共に、人間の思想の歴史を通じて、世界の根源、存在の根拠、人間の存在意味などを問いかけるとき、神の存在と不在の議論がそこには恒に伏在しているとも言える。 例えば、スピノザは神とは「自然」であるとしたが、自然の存在は自明であり、そうとすれば神の存在も自明となる。しかし、このような形の議論は存在証明というより、存在の独断であるとも言える。対し、精神(思惟実体)と物質(延長実体)の二実体論を提示したデカルトの思想では、精神と物体が調和している根拠が不明であり、しかし、にも関わらず、現に精神と物体の調和性が存在することは、両者の仲介者としての「神の存在」が、ここから導かれるとも言える。 あるいはスピノザの場合でも、彼の語る自然は、必然法則を備え、更にその法則は倫理的法則でもあって、物体世界と精神世界が一元論的に統合され、かつ、このような一元実体が倫理的な必然法則を備えるとというのであるから、このような意味では、スピノザの思想そのものが、神の存在証明になっているとも言える。 以下の逸話で語られているニュートンの神の存在論証も、ニュートン力学の構成によって彼が辿り着いた、「神の目的論的証明」のバリエーションだとも言える。宇宙の物体の運動に、想像を絶して精緻な数学的秩序を見出したニュートンが、このような法則構造は、人間の能力を超えた「超越者」の「設計」によると考えるのは、現代の数学者が、抽象数学の定理に、永遠的な美や形而上学的意味を感得するのと似た事態である。 ニュートンは太陽系の模型を上手な機械工に作らせた。その太陽系模型は、惑星を表わす球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていた。 ある日、一人の無神論者の友人がニュートンを訪ねた。友人は模型を見るとすぐにそれを操作し,その動きの見事さに感嘆の声を上げた、「だれが作ったのかね?」。 無神論者は言い返した。「君はきっと、わたしのことを愚か者だと考えているのだろう。勿論、だれかが作ったのに違いないが、その人は天才だな。」 ニュートンはその友人に言った。「これは、君もその法則を知っている、はるかに壮大な体系のごく単純な模型に過ぎないものだ。わたしはこの単なる玩具が設計者や製作者なしに存在することを君に納得させることができない。それなのに、君は、この模型の原型である偉大な体系が設計者も製作者もなしに存在するようになったと信じている、と言うのだ!」 18世紀の数学者レオンハルト・オイラーは、ロシアに滞在していた時、エカテリーナ女王から「ディドロが無神論を吹聴しているので何とかしてほしい」という依頼をうけた。オイラーはディドロと対決し、 と問いかけたところ、数学の素養のないディドロは尻尾をまいて逃げた、というエピソードが語られている。無論、この数式は何の意味もないまったくのデタラメである。類似事件(ソーカル事件)。 20世紀のカトリック思想家で、考古学者であったテイヤール・ド・シャルダンの人間精神の進化思想と、その究極目標としての「オメガ点」の措定は、生物進化の多様さと精緻さ、その「目的性」という観点からは、「目的論的証明」の一種であるとも言える。またオメガが、人間の倫理性から進化するとの考えからは、「道徳論的証明」の一種とも考えられる。 また、20世紀後半以降、「人間原理」の概念が提唱されている。これには「弱い人間原理」と「強い人間原理」があるが、とりわけ強い人間原理の思想的背景は、人間の現象の意味の根拠として、「神の存在」を論証していると解釈することも可能である。 |