福井とは?/ キャッシュワン
[ 957] 福井県 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C
|
山中峠〜木ノ芽峠〜栃ノ木峠の稜線を境にして、北側の嶺北(越前地方)と、南側の嶺南(若狭地方)より構成される。 越前の緑豊かな山々と、若狭の清らかな水の流れに代表されるように、自然が美しい場所であり、それを代表する語に越山若水(えつざんじゃくすい)がある。 嶺北の山間部(奥越前地区)は全国屈指の豪雪地帯であり、年間の降水量は多い時に3000mm以上に達する。ただし、近年は暖冬傾向で、降水量は昔に比べ減少しつつある。 一方で、沿岸部では対馬暖流の影響により、冬でも比較的暖かく、雪よりも雨の日が多い。このために、「弁当忘れても傘忘れるな」という天気の格言が存在する。 県内には遺跡が各地に点在しており、数万年以上前から人が住んでいた事が窺える。各遺跡からは多数の石器が出土している。 鳥浜貝塚(若狭町)からは縄文式土器をはじめ竪穴式住居跡や丸木舟、弓矢、土器に模様をつけるための縄などが出土している。その他、県内各地の遺跡からも多くの遺物が出土し、土器の形式から畿内や飛騨国などの地域との交流があったことがうかがえる。 4世紀初め頃には嶺北で前方後円墳がつくられはじめ、4世紀中頃からは九頭竜川中流域で大規模な古墳がつくられはじめる。手繰ケ城山古墳(4世紀末)や六呂瀬山古墳群(4世紀後半〜5世紀前半)などは北陸地方最大規模であり、この地域が強大な勢力を持っていた事がうかがえる。 5世紀後半から6世紀にかけて若狭、高志、三国、角鹿の国造が分立した。三国国造があった地域は、継体天皇がその即位まで過ごしたとされている。現在の嶺北出身である継体天皇がヤマトの大王として迎え入れられたことが契機となって、ヤマトの勢力と越国の勢力とが合一した。 6世紀後半以降は前方後円墳に代わって小規模な円墳や群集墳がつくられはじめるが、7世紀になると古墳自体つくられなくなる。 7世紀後半頃には律令制の導入に伴い「若狭国」が成立したと見られ、7世紀末には「越前国」が成立したと考えられる。 また調とは別に贄(にえ)と呼ばれる海産物を直接天皇家に貢いだことが平城京の木簡や延喜式から分かっている。これにより若狭国は万葉集にでてくる「御食国」の一つと推定されている。 749年、東大寺が越前国の豪族から土地の寄進を受け、また墾田を買収して、福井平野に多くの荘園を獲得する。この頃には条里制が布かれる。現在でも福井平野には条里遺構が存在する。 8世紀になると渤海との交流が盛んになり、若狭国や越前国は渤海使の来航や遣渤海使の派遣の拠点となる。8世紀後半には交易が中心になる。 764年、クーデターに失敗した恵美押勝(藤原仲麻呂)が越前国に逃れようとするも愛発関が閉じられたため失敗する(恵美押勝の乱)。 この頃は泰澄の開基とされる白山信仰が盛んになり、11世紀末にはその拠点である平泉寺(勝山市)が延暦寺の末寺になり興隆する。 10世紀末に宋人が来航し交易が行われるようになる。特に院政期以降は敦賀津などを中心に貿易が盛んに行われるようになる。 源平の戦いにおいて、越前国では斎藤氏など多くの武士が木曽義仲に味方する。しかし、その後の東国御家人中心の鎌倉幕府の下では、地頭に任命される越前、若狭の国御家人たちはいなかったようである。 この頃になると廻船業が発達し、敦賀津や小浜津、三国湊などが整備され、海上交易が盛んになる。また、それらの港は年貢を京に輸送するための拠点ともなる。 1336年、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が金ケ崎城(敦賀)に入るが、越前国守護斯波高経の軍勢により翌年落城する。義貞は脱出するも、1338年に越前国藤島燈明寺畷(福井市新田塚)にて戦死する。この後も越前国内は戦乱が続き1341年、北朝方が平定する。この後、主に斯波氏が越前国の守護となる。しかし、実質的に越前国を統治していたのは守護代甲斐氏であった。足利義嗣の子孫で室町将軍家の分家にあたる足利氏が都から下向し、鞍谷御所とよばれた。 若狭国では南北朝時代には守護の交代が頻繁に行われるが、1366年、一色氏が守護となり、国人一揆を抑えて若狭を支配する。しかし、1440年、一色氏の勢力拡大を恐れた将軍足利義教は武田氏を守護に任命する。武田氏は一色氏残党や一揆を抑えて若狭を支配する。 15世紀後半になると斯波氏と甲斐氏の対立が深まり、やがて越前国内で内乱が起きる。最終的には幕府の支援を受けた甲斐氏が勝利するものの、応仁の乱時、朝倉孝景が台頭、甲斐氏に代わって越前国を掌握する。後に朝倉氏は戦国大名として勃興する。 1471年、蓮如が越前国吉崎に入り吉崎御坊を建立、北陸地方における本願寺系浄土真宗の布教拠点となる。その後、一向一揆が相次ぐこととなる。 1506年、加賀国から本願寺門徒らが侵入する。しかし、朝倉教景(宗滴)指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利する(九頭竜川の戦い)。 この後、朝倉氏は本願寺系浄土真宗を禁圧する。そのため、多くの本願寺門徒や僧は加賀国に逃れる。そして、たびたび越前国に侵入することになる。 16世紀以降、若狭国では内乱が相次ぎ武田氏は次第に弱体化する。また、朝倉氏が武田氏支援のため若狭国に軍事介入するようになる。 1569年、将軍義昭は台頭してきた織田信長を封じるために本願寺と朝倉氏を和睦させる、この時、本願寺系浄土真宗の禁圧も解かれる。また、武田信玄らとも連携をとる(反信長包囲網の形成)。 1570年9月、信長が大坂、野田・福島で三好三人衆や本願寺と交戦している最中、義景が兵を率い、浅井・朝倉連合軍が3万の軍勢で京に攻め上り、京の口、比叡山に築城する。六角氏の挙兵などもあり、信長は孤立するが、将軍義昭の仲介で講和が成立する(志賀の陣)。 1573年8月、信長が刀禰坂の戦いを経て朝倉氏の本拠地である越前国一乗谷に侵攻、義景は大野に逃れるも家臣の裏切りにより自刃、朝倉氏は滅亡する。越前国は朝倉氏の旧臣に、若狭国は丹羽長秀に統治させる。 1574年、朝倉方から織田方に寝返った武将同士で抗争が発生、それに乗じて一向一揆が蜂起する。本願寺門徒は武将や国人、平泉寺などを襲撃し、越前国を本願寺領国化する。 1575年8月、信長が越前国に再侵攻し本願寺門徒や僧を弾圧、柴田勝家に越前北ノ庄をはじめ越前八郡を、金森長近らに越前大野郡を、不破光治、佐々成政、前田利家(府中三人衆)に越前府中二郡を与える。 1583年、清洲会議で羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まり、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉が勝利、勝家の居城である北ノ庄城を攻め落とす。その後、丹羽長秀が越前の大半を、蜂屋頼隆が敦賀郡を、金森長近が引き続き大野郡を統治する。その後も領主の交替が相次ぐ。 一方若狭では丹羽長秀が越前に移った後、木村隼人佐らが治めていたが、1585年には長秀の子丹羽長重の領地となり、1587年には浅野長吉(長政)が統治し、その後も領主の交替が相次いだ。 1600年の関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として結城秀康に越前一国および下野国結城郡75万石が与えられる(越前北ノ庄藩)。越前松平家は、将軍家徳川秀忠の兄弟の家ということから、制外の家または、御三家に次ぐ家という意味で四家とよばれる。のち、越前松平家は、美作国主として続いた。 1623年、秀康の長男松平忠直が狼藉を理由に豊後国荻原に配流される。そして、翌年には忠直の長男松平光長が越後国に転封され、かわりに秀康次男で庶流の松平忠昌が越前の大部分を与えられ入封する。忠昌の越前入部の際には北ノ庄は福居(後に福井)に改称される。是が県名になったとされている。このとき越前は複数の藩に分割され、越前勝山藩、大野藩、丸岡藩などが成立。また、敦賀郡はいったん幕府領となった後、小浜藩領となり、後に小浜藩支藩の敦賀藩などが成立する。交代寄合旗本の陣屋としては白崎陣屋の金森氏がある。 その後、鯖江藩などが成立する。越前には幕府領や旗本領、国外の大名の領地もあり、多数の領主によって分割統治される状態が明治まで続いた。本来の藩主家である越前松平家は越後高田を経て美作津山藩主として幕末まで続き、越前には忠昌の子孫で傍系である福井藩主家松平家が残った。出雲松江藩主家や播磨明石藩主家、上野前橋藩主家などの大藩の藩主家も忠直の弟達から始まる越前松平家傍流にあたる。幕末期には、本、枝流あわせた越前松平家の総石高は、かるく100万石を超えていた。 1634年、小浜藩は京極忠高に代わって幕府老中の酒井忠勝が領主となり、その後、廃藩置県まで酒井氏が若狭を統治する。 江戸時代中ごろ以降は北前船が三国や敦賀に寄港し、蝦夷地や大坂を結んでいた。小浜の古河、越前河野浦の右近などの北前船主が活躍した。 1774年、小浜藩医である杉田玄白と中川淳庵が前野良沢らとともに「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を刊行する。 幕末期には福井藩主である松平春嶽や福井藩士橋本左内、元小浜藩士の梅田雲浜らが活躍する。また、丸岡藩や小浜藩などが台場を建設する。 1876年8月21日:木ノ芽峠を境に敦賀県が分割され、現在の南越前町以北が石川県に、現在の敦賀市以西が滋賀県に編入された。 1881年2月7日:太政官布告により、嶺北が石川県から分離され、嶺南が滋賀県から分離されて、双方が合併して、福井を県庁所在地として現在の福井県が設置された。 第一次世界大戦以降は人絹(レーヨン)の生産が活発になり、主にアジアやオセアニア、アフリカなどに輸出された。 1956年、新潟農事試験場で人工交配された系統をもとに福井県農業試験場で品種固定された越南17号が、新潟県と千葉県で奨励品種となり、農林番号品種に水稲農林100号として登録されコシヒカリと名付けられる。 1958年10月、大野郡石徹白村の大半の地区が岐阜県郡上郡白鳥町(現在の郡上市)に編入し、現在の県域となる(編入しなかった石徹白村の三面地区、小谷堂地区は和泉村(現在の大野市)に編入)。 2008年2月、アメリカ大統領選挙の民主党候補指名争いで連日大きく報道されていたバラック・オバマに対し、小浜市観光協会員らが「オバマ氏を勝手に応援する会」を発足させ、国内外で報道される。 いわゆる平成の大合併が始まる前は7市11郡22町6村(計35市町村)であった。それ以前に消滅していたのは敦賀郡だけだったが、合併によって坂井・足羽・大野・遠敷の各郡が消滅し、大飯郡を除いて「一郡一町」となった。 2006年3月3日 大飯郡大飯町と遠敷郡名田庄村が新設合併し、大飯郡おおい町が誕生。これにより福井県内から村がなくなる。 勝山市と池田町が現段階での合併を見送る方針であるほか、福井市の合併協議会から離脱した鯖江市も態度を保留している。 日刊県民福井(発行元中日新聞社福井支社。福井県では一部の地域で名古屋で発行されている中日新聞も販売されており、地域版も嶺北、嶺南の地域別で発行されている) JNN系列 嶺北でMROを、嶺南でMBSを視聴している世帯があるほか、奥越の東端である大野市和泉地区(旧:和泉村)では共同受信施設によりCBC(岐阜県郡上中継局から受信したもの)を視聴することができる。但し、アンテナによる個別での直接受信をしている世帯は少ない。 ANN系列 FBCはクロスネット局であるため、嶺北で北陸朝日放送を、嶺南でABCを視聴している世帯(直接受信、ケーブルテレビ再配信ともに)があるがあるほか大野市和泉地区では共同受信施設によりメ〜テレ(岐阜県郡上中継局から受信したもの)を視聴することができる。但し、アンテナによる個別での直接受信をしている世帯は少ない。 NNN系列 嶺北でテレビ金沢を、嶺南でytvを視聴している世帯もある。奥越で中京テレビ放送の電波も届いているが受信している世帯は少ない。 FNN系列 嶺北で石川テレビを、嶺南で関西テレビを視聴している世帯もある。奥越で東海テレビ放送の電波も届いているが受信している世帯は少ない。 TXN系列 嶺南でびわ湖放送・奥越で岐阜放送(岐阜放送エリア図)(共にTXN系列の番組が多く放送されている)を視聴している世帯がある。 補足として福井県はビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は山梨県、徳島県、佐賀県、宮崎県。)の1つとなっている。 |